ぼくの日記

ぼくです

何故我々はガチャに批判的態度を取るべきなのか

何故ガチャは悪か?

悪とはある価値観から判断される相対的な指標なので、複数の価値観からガチャが悪とみなせることを指摘したい。

ガチャは複合的な要因による依存を生み出すから(社会的立場から)

一般的にガチャはランダムで大きく報酬が変わる、賭博的な要素を持っている。賭博的要素は、これ単体では批判されるべきものでない。むしろゲームの面白さとして賭博的要素は本質的な構成要件の一つだ。(例えばハックアンドスラッシュの"装備掘り"や、メダルゲームなど)

問題は、ガチャが日本のインターネッツ若者文化の土壌であるところのSNS文化に強く根付いてしまったことにある。ガチャの結果をSNSに上げると、しばしば他の人からのリアクションが多くつくことがある。これはガチャの結果が単純に面白かったり、結果に付随して行われる自虐や自慢などの"芸"に対するものだったりするが、つまるところこれは単純に承認を得られやすい。これほど個人が陳腐化したインターネッツでは凡人は簡単に承認を得られないのに、ガチャを引けばいともたやすくある程度の反応が返ってくるのだ。

もちろん周りの人間も同じような"ガチャ芸"を行っているので生半可な"ガチャ芸"では埋もれがちになる。大抵の人間は先鋭化についていけず立ち位置を見つけるかゲームを辞めるかしてしまうのだが、一部の人間は更に承認を得る為にどんどん過激に金をつぎ込むことになる。これが社会的に良くない状態とされるのは、ギャンブル依存や借金依存などの社会問題との相関より明らかである。

賭博要素と承認欲求により、人間はいともたやすく依存に陥るのである。

報酬が投資に見合っていないから(公平性の立場から)

ゲーム作品の相場はコンシューマーゲームであれば新品の重厚なゲームソフトが6000円~9000円ほど。インディーズゲームは数百円~4000円。買い切りのスマホゲームであれば数百円に収まるのが大抵で、高くても2000円程度である。

これに対し、ガチャはゲームにも大きくよるが目当てのキャラクター一体をそれなりの累積確率で引ける投資額が数万円なんてのはザラで、数十万に及ぶのも珍しくない。(シャニマスの最初の何度でも引き直せるガチャでSSR風野灯織を引くのに何十回引いたことか・・・)ゲーム内の一つの要素に対し数万円〜数十万円を投資しないと手に入らないのは、一般的な感覚でいうと明らかに見合っていない。そもそもそれだけ投資したところで手に入らない可能性もあるのだ(これについては最近は"天井"というシステムが導入されているゲームもある)。見合ってないという見解に反論がある奴は聞いてやらんでもないから今すぐ手元のスマートフォンをぶっ壊せ。

ガチャの高額さにより、前述したガチャ依存はいわゆるゲーム依存よりも本人の経済的損失という面でより悪質なのである。

ゲーム制作会社がゲームコンテンツをガチャに依存しすぎるから(ゲーム好きの立場から)

ここは意見の別れることだと思う。ガチャはそれ単体でゲーム史上類を見ない高コスパなコンテンツのため、ゲームコンテンツをガチャに注力しがちだ。それによってガチャ以外のゲームコンテンツを疎かにしてガチャの追加要素ばかりが更新されるのを、特に末期と呼ばれるソーシャルゲームやネットゲームで見ることになる。

個人の感想だが、僕は開発会社にはガチャのようなお金を入れてボタンを押すだけのソーシャル的コンテンツではなくて、もう少し"ゲーム性のある"コンテンツの開発に比重を置いて欲しいのである。末期であればあるほど、技術的介入度の高い面白さで挽回して欲しい。

 

以上がとりあえず思いつくガチャが様々な価値観から悪とみなせる理由である。そのうち追記しそう。

 

何故批判せねばならないのか?

しかし、ハッキリ言って関わるのは個人の自由であるガチャを、何故無関係、あるいは依存というほどでなく程々に楽しんでいる我々が批判せねばならないのか?

我々若者はガチャ文化を無批判に受け入れすぎたのだ。

'ガチャ沼''3000円入れれば無料で10連引ける''爆死'・・・我々はこのようなタームを娯楽的に消費、あるいは発信することでガチャ文化を育んできた。これは恐らくこの記事を見ている殆どの人に当てはまることである。我々が育んだガチャ文化が、軽重度のガチャ依存者を生み出し、ゲーム会社の投資配分を歪ませ、次世代の子供達のゲーム体験を方向づけてしまったのだ。良し悪しはこの際置いておくとしても、これは我々の世代の連帯責任であることを肝に命じなければならない。

もし、ガチャを少しでも悪と感じていたり問題であると思うのであれば、批判を行わなければならない。実際欧米圏は我々よりガチャ(海外ではルートボックスと呼ばれる事が多い)に対する嫌悪が強いため、猛烈な批判や規制議論が巻き起こっており、ゲーム会社をも動かす事態になっている。

 

以上が僕がガチャに批判的態度を取る理由である。

 

参考

jp.automaton.am

www.4gamer.net

世界でオナニーはしたらダメだで

 

妄想の中の並行世界は想像可能な限りの世界を僕らに見せてくれるけども、どこかの誰かが言ったように想像しうる事柄は存在するというアレをとりあえず真とすると、愛だったり友情だったりするものが途端に虚しく感じられてくるわけだが、一般的にはそこで"一期一会"とか"人が出会う確率"を持ち出して現在の人間関係の尊さを回復するんだろうけども そもそも世界の唯一性に尊さを感じる時点で何か本質を見誤ってる気がしてならず、研鑽が足りないと感じる
ところで勝手に使ってる"尊い"という限界オタクみたいな用語は僕にとって無批判に使われるべき単語で、それは日常生活を送っている中で突然やってくる人間や社会についての無限の尊敬と畏怖の感情に近く、最近だと大学の近くの森の側を歩いてきたときに感じたえも言われぬ喜びと衝撃は、人間の大脳の情報的巨大さについての物だったのだが、とにかく巨大なものとの種としてあるいは個としての混交が原始宗教的な響きもって僕の中に降りてきたときに感じるやつで、 つまるところ世界をオナホに使うと気持ちがいいしどんな嫌な相手もお前は俺のオナホの一部と思うとなんか許せて人生を豊かに過ごせるライフハックってことだ

【MOBA】Heros of the Stormが面白い

最近体調の悪いみどるんです。
腹痛と風邪に苦しんでいるとどうもゲーム欲が湧いてきまして、身内と色々ゲームやってたんですが、ひょんな拍子でHeros of the Storm(HotS)というMOBAを始めてしまいました。

要はLoLとかDotAとかHoNとかと同じMOBAなんですが、想像以上に手触りが良かったです。LoLしてる人向けにとりあえず感想を書いてみます。

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【Unity】3次ベジェ曲線を描いてくれるスクリプトを書いた

必要に駆られたので適当にパパッと

空のオブジェクトに貼り付けたら勝手にStartとEndが勝手にできるよ

複数点には対応してないのでそのうち対応するかも

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参考文献はこれ

Bézier curve - Wikipedia

共通項でくくる

キンコン西野の絵本無料化が話題になっている。話題になった、というより炎上した、が的確な形容か。今更わざわざ詳細を書くつもりはない。僕は彼に興味を全く持っていない。今回の件に関して何か言及したいわけでもないし、そもそも明確な答えを持っているわけでもない。無料にされたら同業者が割を食うというのはスコープを限定すれば妥当な因果関係に思えるような気もするし、いやいやビジネスモデルとしては成立している、とか子ども達のため、とか聞くとなるほど社会の進歩のため無料化すべきだとも思えるような気がする。互いに交差しないねじれの位置にあるベクトルの物差しをお互い持ち寄って、お互いがこっちの方が長い、いやこっちの方が、などと言い合う、いつもの喜劇会場がそこにはあった。Twitterは偉大なプラットフォームだが、これほど議論に向かず、また誤解を生みやすい媒体もないなと思う。

 

僕の、世界に対してあまりにも狭い、ノミの毛穴のような観測範囲から見てみると、どうやら人間というのは無意識的にしろ意識的にしろ、自分の世界を押し付けたがるものらしい。この"押し付ける"という言葉は言葉自身が被害者めいた一面性を持っているような気がして好きではないため言い換えると、人間というのは自分の世界(価値観)を拡張しがちだということだ。経験からは逃れられないと言ってもいい。無償を前提としたビジネスモデルを進歩的で望ましいと考える人々、あるいはそういったビジネスモデルの成功体験を持った人々はそういった話に迂闊になりがちだし、逆もまたそうだろう。

ふと考えると、エンジニアは実装方法や成果物を無償で公開するのに驚くほど積極的だ。無理やり動画編集に例えるなら、(素材を抜いた)AEプロジェクトファイルをネットに上げることを個人や団体が積極的に行ない、それに対してわざわざ業界標準的なライセンスを用意しているようなものだ。これは大規模共同開発の必要にかられ優れたバージョン管理システムが構築された結果であり、動画編集という最終的にはセンスの作業と違いプログラムは基本的に議論に白黒がつくという、創作の毛色の違いの結果でもある。偏見でを承知で書くならば、そういった背景があるからか、彼らは平均的なその他の創作人に比べて無償化に対しておおらかである。少なくとも今回の件ではそう見えたのだ。

相変わらず何が言いたいのかわからなくなってしまったが、ともかく、炎上に加担した人間の"その発言"というのは一面的であるが故に、その人らの文化的背景が色濃く現れているような、そんな気がした今回の件であった。

自己定義のジレンマ

バス停にて朝日新聞が「吾輩は猫である」の連載を始めたとの広告を見かけた。妙に可愛い猫の写真とともに文中の猫の台詞が並んでいたが、作中の猫はあんなにカワイイものではないだろうと心中でツッコミを入れた。

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