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ぼくの日記

ぼくです

自己定義のジレンマ

バス停にて朝日新聞が「吾輩は猫である」の連載を始めたとの広告を見かけた。妙に可愛い猫の写真とともに文中の猫の台詞が並んでいたが、作中の猫はあんなにカワイイものではないだろうと心中でツッコミを入れた。

中学生の頃、祖父から「吾輩は猫である」を借り受けたのを思い出す。そういえばあの本はまだ返していない。家のどこにあるかも見当がつかない。

もしこれから読まれるなら、あの本は難解な単語が多く出てくるので、青空文庫で読むよりかは注釈のついた市販のものを読んだ方がいいだろう。朝日新聞の連載ではちゃんと解説されるのだろうか。うちでは朝日新聞をとっていないので、確かめるのも面倒だが。

たまにこうやって文章として心の内を告白したくなる欲求に駆られる。これまではTwitterで適当に消費したり、内語で発散したりしていたのだが、新しく買ったMacBookProが出先でタイプするのが非常に楽しくなるタイプのデバイスなので、これからは散文形式で発散するのも良いなと思う。ブログのネタにもなるかもしれない。

そんなことを考えながらバス停の前で立っているうちに、自分の存在価値について思いが及んだ。価値をつけるというのは、対象と他と比較し、差異を見出し、差異に評価を下すということだ。しかし対象が自分となると、その価値判断が自身の人格に大きく影響するかもしれない。この考えにはあまり反論はないと思う。

自己定義をするにあたって、しかしながら、自己定義そのものが自分の人格に影響を及ぼすことにどうしても無関心ではいられない以上、それに消極的にならざるを得ない、という、考察が考察対象に影響を及ぼすのを懸念する社会学者のジレンマのような現象。我ら多感な青年期にあっては当然あることで(もしかしたらあまりないかもしれない)、最近自分の存在価値を見直している僕としては、他の悩める若者がこのジレンマをどう解消しているのか非常に気になってしまう。

その影響を恐れずに勇気を振り絞って自己定義するならば、僕は素質としては理系分野よりも文系分野の方に素質があるが、素養として何を持っているでもなく、自分の中に体系だった知識があるわけでもない、要は僕は凡人なのだと思う。趣味もゲームやネットサーフィンや、たまにアニメと映画という、凡庸すぎて赤面するレベルの人間である。

こんなことを書くと自分を卑下するなとか謙遜するなと言われるのだが、趣味がネットサーフィンだと、時代の申し子というか、秀才天才の作品に頻繁に行き着くわけで、要はこのネット時代、井の中の蛙では居られない。自分を高く持ちようがない。やはりネットサーフィンは自己肯定感に対して毒だ。皆SNSに走るわけだ。