ぼくの日記

ぼくです

共通項でくくる

キンコン西野の絵本無料化が話題になっている。話題になった、というより炎上した、が的確な形容か。今更わざわざ詳細を書くつもりはない。僕は彼に興味を全く持っていない。今回の件に関して何か言及したいわけでもないし、そもそも明確な答えを持っているわけでもない。無料にされたら同業者が割を食うというのはスコープを限定すれば妥当な因果関係に思えるような気もするし、いやいやビジネスモデルとしては成立している、とか子ども達のため、とか聞くとなるほど社会の進歩のため無料化すべきだとも思えるような気がする。互いに交差しないねじれの位置にあるベクトルの物差しをお互い持ち寄って、お互いがこっちの方が長い、いやこっちの方が、などと言い合う、いつもの喜劇会場がそこにはあった。Twitterは偉大なプラットフォームだが、これほど議論に向かず、また誤解を生みやすい媒体もないなと思う。

 

僕の、世界に対してあまりにも狭い、ノミの毛穴のような観測範囲から見てみると、どうやら人間というのは無意識的にしろ意識的にしろ、自分の世界を押し付けたがるものらしい。この"押し付ける"という言葉は言葉自身が被害者めいた一面性を持っているような気がして好きではないため言い換えると、人間というのは自分の世界(価値観)を拡張しがちだということだ。経験からは逃れられないと言ってもいい。無償を前提としたビジネスモデルを進歩的で望ましいと考える人々、あるいはそういったビジネスモデルの成功体験を持った人々はそういった話に迂闊になりがちだし、逆もまたそうだろう。

ふと考えると、エンジニアは実装方法や成果物を無償で公開するのに驚くほど積極的だ。無理やり動画編集に例えるなら、(素材を抜いた)AEプロジェクトファイルをネットに上げることを個人や団体が積極的に行ない、それに対してわざわざ業界標準的なライセンスを用意しているようなものだ。これは大規模共同開発の必要にかられ優れたバージョン管理システムが構築された結果であり、動画編集という最終的にはセンスの作業と違いプログラムは基本的に議論に白黒がつくという、創作の毛色の違いの結果でもある。偏見でを承知で書くならば、そういった背景があるからか、彼らは平均的なその他の創作人に比べて無償化に対しておおらかである。少なくとも今回の件ではそう見えたのだ。

相変わらず何が言いたいのかわからなくなってしまったが、ともかく、炎上に加担した人間の"その発言"というのは一面的であるが故に、その人らの文化的背景が色濃く現れているような、そんな気がした今回の件であった。