ぼくの日記

ぼくです

第一原因について私的な覚書

最初に断っておくが、僕は不可知論者である。不可知論とは、要するに神様がいるかどうかなんて僕らにはわかんないよねwだから神の存在を真理とする宗教の理屈は否定するわwという立場である。

ところで僕は福岡在住という立場上、統一教会の勧誘にときたま出会う。彼らは基本的に善人であり、人当たりも良いので勧誘された際に彼らとお話をすることがある。
統一教会には"第一原因"と呼ばれる概念がある。神の存在を疑う人に対して、信徒はこの概念を用いて神の存在を認めさせようとする。
説明はこうだ。あなたが生まれているのは父母がいたからである。父母がいるのは祖先がいたからである。このようにして辿っていくと、我々がこの世に存在するからには、第1の、最初の原因が存在するはずである。これが"第一原因"である。そして、これをまず神として考えて欲しい、と彼らは続ける。
この理屈に対して僕は常にこう返す。もし時間の流れがまるで輪のようにループしていると仮定した場合、"原因"←→"結果"という論理的構造を保ったまま、第一原因を認めずとも良くなるのではないか?ちょうど輪を一周させて輪の方向に沿って前後をつけた場合、そこには始点無しに"前"←→"後"という構造が認められるように。
我々が三次元的物体をゆがめたり、たわめたりできるように、より高次の世界ではあたかも紐を一周して結ぶが如く、3次元物体の連続的論理構造である"原因"と"結果"をループさせることができる、という仮定は、今まで有効な反論を頂いたことがない。しかし、ここで思考を停止するのもよくないので、予想されうる反論についてここに書き記しておく。


反論1.この世界が、高次の視点においてループしている存在なのであったとしても、この世界が"生成される"過程があったはずである。生成されるという"結果"があったからには"原因"があるはずである。よって、それ、またはそれをたどったものが第一原因である。

返答:"原因"←→"結果"は時間的に連続した3次元構造の変化に注目した論理関係であることを忘れてはならない。より高度な次元を考える際には、あたかも、紐の"前"←→"後"という関係が我々3次元世界において必ずしも成立するわけではないように、時間の流れ、因果関係が通用すると無根拠に受け入れてはならない。何故なら我々はそれを知覚できないから。

反論2.紐を結ぶ際には結び目が存在する。それこそが第一原因である。この場合、まさに、"結ぶ"という行為は世界の創生を意味するのだ。

返答:紐を結ぶという比喩を用いたが、それでは代わりに、指輪のような、始点が存在しない輪を想像していただきたい。その指輪のような輪を作ったのは誰だ、原因があるはずだという方は1.の反論と同じく、より高次の存在を考える際には"原因"←→"結果"という時間的論理構造を無条件に受け入れるわけにはいかないということにご留意いただきたい。

反論3.そのような直感的でない仮定は説得力を持たない。

返答:そのような論理的でない反論は説得力を持たない。
(そのうち追加)

 

そもそも、神の存在を万人に受け入れられる前提から出発して論理的に証明するなど、デカルトの時代ならともかく、この神なき世の中では土台無理なのであろう。信仰の根拠は真に内的であるべきだ。この点で、僕は科学を理論の内に取り込もうとする統一協会の姿勢に対して批判的である。